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徳川家茂 - 史上最年少将軍の虫歯と栄養失調、そして死因の謎

[2024.06.22]

徳川家茂 - 史上最年少将軍の虫歯と栄養失調、そして死因甘党で虫歯に苦しみ、栄養失調に冒された徳川家茂。12歳で将軍に就任したものの、死の直前まで働いた優しき青年将軍の波乱の人生と、21歳での急死に関する暗殺説の真相に迫ります。家茂の生涯から歴史の教訓を探求しましょう

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はじめ

 

このブログでは、史上最年少の将軍として知られる徳川家茂の生涯に焦点を当てています。家茂は12歳の若さで将軍職を継承しましたが、甘党であったことから虫歯に苦しみ、栄養失調による脚気にも冒されました。それでも家茂は優しく部下思いの将軍として評価が高く、死の直前まで働いていました。しかし、早すぎる21歳での急死には、暗殺説も浮上するなど、謎が残されています。家茂の波乱に満ちた人生を追体験しながら、歴史の真実と教訓を探っていきましょう。

 

  1. 史上最年少の将軍 - 12歳の若さで将軍職を継ぐ

 

徳川家茂は、歴史上最も若い将軍として知られています。彼はたった12歳で将軍の地位を継ぎましたが、その背後には将軍後継者問題が存在しました。

当時の江戸幕府では、慶喜派と慶福派と呼ばれる2つの派閥が対立しており、将軍後継者を巡って争いが起こりました。慶喜派は徳川慶喜を支持し、慶福派は徳川家茂を応援していました。最終的に、伊井直弼が大老の権限を利用して徳川家茂を後継者に選び、彼はわずか12歳で14代将軍となりました。

ただし、家茂が将軍に就任したのは単なる偶然ではありませんでした。彼には優れた才能と心構えが備わっていました。幼少期から幕政に関与し、将軍としての責務を果たすために努力し続けました。

家茂が12歳で将軍になったことは非常に異例であり、その若さには多くの批判や疑念もありました。しかし、後に彼の勇気と知恵を称賛する声も上がりました。彼は将軍の地位で成長し、徳川将軍の歴史に名を刻みました。

このような背景を考えると、家茂の成功は偶然ではなく、彼自身の意志と能力によるものであることが分かります。彼の物語は興味深く、彼の若い頃からの努力と成長は私たちに多くの示唆を与えてくれます。

 

  1. 虫歯と甘党が原因の脚気に苦しむ

 

家茂公は大の甘党で、羊羹や金平糖、カステラ、最中など甘いものを好んで食べていました。しかし、この当時はまだ歯ブラシのような効果的な歯磨き用具がなく、木の枝を使った房楊枝で歯を清掃していたため、虫歯に侵されてしまいました。頭蓋骨の調査によれば、家茂公の32本の歯のうち、30本もが虫歯だったのです。これほどの虫歯の数は驚くべきことであり、家茂公はたった21歳の若さでこの世を去ることになりました。

さらに深刻なのは、虫歯による体力の低下と栄養不足が脚気(ビタミンB1欠乏症)を引き起こしたことです。当時は脚気の原因や治療法も分かっておらず、手足の痺れやむくみ、最終的には心不全に至ってしまうという恐ろしい病気でした。家茂公は甘いものを好んで食べ過ぎ、さらに食事が満足に摂れず栄養が不足していたため、脚気に苦しむこととなりました。その時期はとても暑かったため、ビタミンB1の消耗が激しく、さらに不足して病状が悪化してしまいました。

家茂公の健康状態の悪化は、和宮の心にも大きな影響を与えました。政略結婚であった彼ら夫婦にも、この苦難を通じて本当の情愛が芽生えたのです。

虫歯という小さな問題が、将軍の健康を蝕み、最終的に命を奪ってしまった悲劇。この出来事は、現代の私たちにも深い教訓を与えてくれます。甘いものを食べること自体は悪いことではありませんが、過剰な摂取は健康に悪影響を及ぼす可能性があります。特に、虫歯や歯周病を引き起こす原因となるので、歯の健康を守るためには適度な摂取が重要です。

また、栄養バランスの偏った食事やビタミンB1の不足も脚気の発症リスクを高めます。皆さんも家茂公のような過度な糖質摂取や栄養不足には十分に注意しましょう。ビタミンB1をはじめとする栄養素をバランス良く摂取し、日々の食事やオーラルケアに気を配ることで、虫歯や脚気から身を守りましょう。健康な歯と体を維持するためには、甘いものへの欲望に勝ることも大切です。

 

  1. 死の直前まで働く優しき青年将軍

 

家茂は部下思いの将軍でした。彼は重臣たちをまとめるため、自らの判断と指導力を発揮しました。ある時、大阪湾での軍艦行進中に天候が悪化し船が揺れ始めると、重臣たちは狼狽しました。しかし、家茂は冷静に重臣たちの騒ぎを制止しました。「この軍艦のキャプテンは私である。私を含め、全ての乗員は私の指示に従わなければならない」と言い切りました。

家茂の部下への思いやりと的確な判断力は、彼の指導力を高めました。彼の細やかな心遣いや先見の明には周りの人々からも高い評価がありました。

また、家茂は公武合体の一環として和宮を正室に迎えました。和宮は政略結婚であり、相愛の許嫁もいた中での結婚でしたが、家茂は和宮の悲しみを理解し、彼女の孤立を防ぐために努力しました。彼は頻繁に贈り物をし、手紙を送ることで和宮との絆を深めました。

家茂の優しさと思いやりは、和宮に大きな影響を与えました。和宮は家茂の死後、出家して「静寛院」と名乗り、徳川家の存続を訴える活動を行いました。彼女との絆は非常に強く、家茂からのお土産である西陣織を受け取るなど、彼女は家茂への愛情を深く持ち続けました。

家茂は将軍職に就く傍ら、部下や家族に対しても温かい心を持ち続けました。彼の優しさと思いやりは広く評価され、多くの人々に感銘を与えました。しかし、彼の若さと体の弱さが彼の運命を決定づけ、悲劇的な結末を迎えることとなります。

 

  1. 急死の真相 - 暗殺説も浮上

 

徳川家茂の急死には、暗殺の噂も広まりました。彼が死亡するまでの病状や経過からは、脚気が死因とされていますが、その結論も当時の診断や治療方法の限界からくるものであり、真相を解明することは難しいでしょう。

暗殺説が浮上したのは、徳川家茂が当時の政治情勢の中で将軍職を務めていたことや、彼の死がすぐに公表されなかったことによるものです。日米修好通商条約や兵庫開港、桜田門外の変、第1次・第2次長州征伐など、日本を揺るがす重要な事件や政策の中で将軍職を務めていた家茂は、多くの敵や批判者を抱えていました。そのため、彼の死が暗殺によるものではないかと疑念が広がったのです。

しかし、真相は明らかにされることはありませんでした。当時の医学の知識や技術の限界から、正確な診断や死因の特定は困難でした。また、当時の政治状況や家康の死因などから、家茂の死が暗殺である可能性は低いとされています。

徳川将軍の死はいくつかの謎を残したまま、彼の若き生涯は終わりました。家茂の死は日本史の一ページに刻まれた悲劇であり、今なお多くの人々の関心を引きつけています。真相は闇に葬られてしまったかもしれませんが、彼の人間性や政治的な取り組みなどは、歴史の中で評価され続けるでしょう。

※このブログの情報は、参考文献や研究の結果に基づいていますが、医学的な専門知識や確定的な事実とは異なる場合もあります。詳細な情報や正確な知識を得るためには、専門家への相談や正確な文献の参照をおすすめします。

 

  1. 天皇からの治療も空しく 21歳の生涯を閉じる

 

慶応4年(明治元年)4月10日、天璋院篤姫は江戸城を退去しました。その翌日、官軍が江戸城を接収し、大奥の歴史も終わりを迎えました。鳥羽・伏見の戦いが勃発してから江戸城を去るまでの間、天璋院は大奥に留まり、徳川家の存続を図るために官軍に立ち向かいました。この行動は、大奥の設立理念である徳川の「胤」を残すことを守るためでもありました。ここでは、彼女の最後の3か月に迫ります。

鳥羽・伏見の戦いが始まると、15代将軍の慶喜は戦況が不利と判断し、大坂城から脱出し、海路で江戸に帰還することを選びました。10日には慶喜の官位は剥奪され、官軍は全国に対して彼を追討しました。

江戸に戻った慶喜は12日、天璋院と面会し、14代将軍の御台所である和宮との面会を求めました。彼は自身が退く後の徳川家の相続問題を話し合いたかったのだろうと推測されます。しかし和宮は面会を拒否しました。彼女は慶喜への不信感に満ちていたためです。

天璋院は鳥羽・伏見の戦いから江戸城を去るまでの間、官軍と熾烈な駆け引きを繰り広げました。慶喜には二心があるとされており、天璋院も彼を信じていなかったようです。しかし、徳川家の存亡に関わる重大な問題であるため、彼女は和宮を説得しようとしました。そして、15日に慶喜と和宮の面会が実現しました。

天璋院の努力も虚しく、心優しい青年将軍である家茂は、慶応4年にわずか21歳で急逝してしまいます。彼の頭のい骨を調べると、驚くべきことに虫歯が原因であったことが判明しました。家茂の歯のうち30本が虫歯に侵されており、彼の甘党であることや虫歯になりやすい体質が一因とされています。虫歯が進行することでビタミンB1の不足が生じ、脚気という病に苦しむこととなりました。

現在では脚気は手軽に治療できる病気ですが、当時はその治療法が分かっていませんでした。こうして、青年将軍家茂は21歳という若さでこの世を去るのでした。

 

まとめ

徳川家茂の生涯は、まさに人生の喜びと悲しみを凝縮したような物語でした。12歳という史上最年少の将軍に就任し、卓越した指導力と思いやりの心を発揮した彼でしたが、虫歯と脚気という健康上の問題に苦しみ、わずか21歳という若さで生涯を閉じることとなりました。この悲劇的な最期には謎も残されていますが、家茂の人格と業績は後世に高く評価されてきました。彼の短い人生から、私たちは健康の大切さや思いやりの心の重要性を学ぶことができるのではないでしょうか。将来への希望と準備、そして行動力を持ち続けることが、家茂の教訓から得られる大きな示唆だと言えるでしょう。

この記事を監修した人
山崎 英彦

札幌 歯周病・予防歯科 院長
歯周病治療および予防歯科を重視し、口腔の健康を目標とした治療を心がけています。

  • 日本歯周病学会指導医
  • 日本臨床歯周病学会指導医
  • 日本糖尿病学会協力歯科医
  • 日本歯周病学会認定研修施設

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